紅葉屋財閥の躍進

▶ 紅葉屋の舶来物の繁盛ぶり

安政 6年(1859)横浜港が開港し、3代富田重助と父・金平はいち早く舶来物の取り扱いを決め、1860年代前半から舶来品を売ったようだ。舶来物の仕入れの資金は父・金平が干鰯で、母・まつ子が質業で貯めた財だと推定する。結果、紅葉屋は名古屋で一番目の舶来品店となり、伊勢路や北國筋へも配送するなど商品が飛ぶように売れたので、横浜で仕入れた商品は飛切急火船といわれた高速貨物船で名古屋に運んでも追いつかないほどであった。店員は店に立ちながら握り飯で食事をする忙しさで、慶応元年(1865)頃は千両/日の売り上げがあったらしく、莫大な富を築いた。

紅葉屋の繁盛のエピソードが「紅葉屋事件」であり、それは尾張藩の勤王派が舶来品を売るのは売国行為だから廃業させよと訴えを出した。紅葉屋にも勤王派の金鐵組が押し込んだが、商品が無くなる迄の猶予をと願い出て代償として5百両を渡して切り抜けた。しかし紅葉屋は次々と仕入れを続け廃業しなかったため慶応2年2月8日に再度金鐵組に押し込まれ、商品を刀で切り付けられてしまった。紅葉屋は商売はやめることなく、それをネタに「店がつぶされるので舶来物が売れなくなる」と吹聴したため、益々客が殺到して繁盛したとのことである。金鐵組は他に悪さをしたことで処分され、紅葉屋はもめごとを起こした罰で2週間の営業停止を受け、金鐵組とのトラブルは打ち止めとなった。

その後、明治9年に金之助の長兄・3代目富田重助が亡くなったが、金之助が幼い4代富田重助の後見人となり、父・金平のバックアップの下、紅葉屋を率いた。店は筆頭番頭の漁り甚七に譲り、土地・植林・養蚕・

会社の設立など手広く活動を広げて益々財力を蓄え、一時期は名古屋で2番目の財閥となった。


 紅葉屋事件


 金平、大蔵省に招致

紅葉屋は盛大に信州諏訪方面の生糸を横浜に送り、舶来品の仕入れていたので、明治5年(1872)に大蔵省より横浜に招致された。日本が生糸輸出の活性化をいかにするかのシンポジュウムに招かれ意見を求められたわけである。愛知県出張所との打ち合わせ他準備と奨励策の陳述で、軽70日間の日程であったとのこと。


 金禄公債

金禄公債は華族や士族の給金を明治政府がお金の代わりに明治9年8月に発行した債券である。現金化は早くて6年後で、その後30年かけて支払われるものであった。そこで金に困った華族や士族が金禄公債を売りに出したので、値上がりを見込んで額面の40%で購入した。明治11年に金禄公債の売買が許可(自由化)されたので、高価で売り抜け莫大な利潤を得た。


 太政官札

明治政府は戊辰戦争に多額の費用を要し、殖産興業の資金が不足したので、慶応4年5月15日(1868年7月4日)に太政官札(紙幣)を発行した。当初、国民は紙幣に不慣れで人気が無く、闇ルートで額面の40%で取引されていたようだ。特に京都では破格の安さであったため、東京で白木綿を仕入れ京都で太政官札を集め、額面との差で利益を出した。


 明治13年の収支決算

明治13年1月に紅葉屋の収支決算をしたところ、数十万円と莫大なものであった。現在の価値との比較は難しいが、当時の1円は現在の数万円との試算もあり、数十万円は少なくとも数十億円と推察される。


 金融業から土地への転換

明治15年、明治政府の幣制改革により、物価や地価が下落し損害を受けた金之助は、金融業から土地の取得に方向転換をした。その後伊勢を中心に土地を購入したが売買が頻繁に行われたので、詳細をここに記載しきれない。大正8年(1919)の所有地は次である。地域は一志郡・阪南郡・河藝郡・鈴鹿郡・度會郡・多気郡の6郡に亘り、田地580町、畑地116町、山林原野311町、宅地5349町とある。なお、遡ること明治40年(1907)に伊勢に紳富農會を組織した。 当會は農事の改良を目的とし、肥料・農具及び耕作に関する改善や米質品評會・種苗交換會等の開催、及び農事試験場並に種作場等の設立、病害の予防防駆除・共同採種・共同苗代・緑肥及び堆肥の奨動、農産物種類の統一、乾燥調製の改良及び管理者・小作者の表彰、勤倹貯蓄と副業の奨動等である。これは神野新田でも行われた施策である。


 山林渓谷の購入

・神野金之助は三重県下で山林も購入しており、大熊谷は明治13から14で1,100町歩、梨谷は昭和元年

 (1926)12月12日に500町歩、桑木谷は明治44年6月に1,000町歩である

・明治29年の神野新田の1,100町歩を含めると広大な土地を取得することになる

・一時期は山形県の酒田の本間家と並ぶほどの日本有数の土地持ちとなった


 貸付と土地の取得(三重県がメイン)

3代富田重助が明治3.4年に紅葉屋の富を岐阜県下に土地を担保に貸し付けをしていた。金之助は明治8、9年からさらに三重県下にも貸し付けを始めた。担保としての土地の取得と、買い増したは土地は、東は静岡、西は大阪府下と拡大し、土地ブームに乗じて巨大な利益を得たが、最終的には三重県に資力を集中した。

初代金之助(44歳)が明治25年に三重県で土地を購入た土地からの米を管理・保存した六軒出張所が完成


 菱池の干拓事業

三河額田郡菱池村(現幸田町)に50余町歩の県有沼地があった。明治17年6月、開墾事業に興味があった神野金之助は愛知県庁に申請して払い下げを受けた。何度埋め立てても沈下して堤防が破壊され難攻を極めたが、水車を以て排水したことで、明治19年5月8日に菱池新田の成工式を迎えた。その後整備が進み明治36年に至って田畑53町歩となったが、明治39年に内藤弥作に譲渡した。

この菱池の開拓の成功経験が、神野新田開拓の原動力につながるのである。

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菱池新田が神野新田とも呼ばれた証(神富殖産資料より抜粋)


 明治25年頃の三重県に所有の土地と菱池新田

 ・三重県に持つ土地の合計は約900町歩、幸田の菱池干拓は53町歩

 ・神野新田は明治26年から工事が始まるが、1,100町歩


 神野新田の開発と整備

神野新田に付いては、他の関連ホームページを作ってますので、そちらを参照されたい。


 名古屋の有名緒店舗(明治33年の書籍)


 愛知県壱万円以上実業家資産名鑑から関係者の情報(大正3年の書籍)

 ・この頃の紅葉屋は総番頭の浅野甚七が引継いで経営しており、神野家富田家は直接関係していない


 愛知県壱万円以上実業家資産名鑑から関係者の情報

 ・大正11年発行の書籍で著作権が切れて公開されてます(順番は1段目も2番目も右から左へ)

 ・赤枠で囲った人物は親戚と仕事関係で近しい人です

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