浅野甚七時代の紅葉屋

 ・初代甚七の子、孝造は四代富田重助の養子となり娘婿となる

 ・二代甚七の長女花子は神野三郎の長男、太郎の妻となる

 ・紅葉屋の店も継続していたが、神野家富田家と親戚関係を持ち、戦前から名古屋の老舗と

  言われ、紅葉屋財閥の一員としても活躍しており、地位も名誉も財力もあった


▶ 総番頭の浅野甚七が受け継いだ紅葉屋(創業から189年で閉業)


 ・初代金之助は殖産事業に進み、後に「紅葉屋財閥」と呼ばれる、明治9年、店は総番頭の浅野甚七に譲る

 ・上の左が晩年で、右側が丸内がNo2の浅野甚七と思われます、その右が当主の三代富田重助(帯刀)

 ・昭和12年は洋反物を扱っていたが、戦前から月星化成の代理店、2018年末に店を閉めた


▶ 二代甚七


▶ ストリートビュー(紅葉屋の店舗ビルは解体されました)

2021年の『紅葉屋』などの建物跡、開発中


外壁に壁が張られ解体中、2019年当時の『紅葉屋』の建物


中央の縦長・オレンジ色が2011年当時の『紅葉屋』の看板で、上とほぼ同アングルです


▶ 2019年に紅葉屋は閉店しました

 ・料亭つたも主人・深田正雄の「住吉の語り部となりたい」に詳しく描かれてます

 ・戦前から月星ゴムの代理店をしていたが、2018年末までで商いをしていたそうです

 ・上のストリートビューに有るよう、2019年に店舗ビルの解体が始まりました 


▶ 平成の書籍から

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▶ 昭和35年の鉄砲町の住宅地図

 ・昭和35年当時の紅葉屋を含む(左下)(画像クリックでソースにリンク)

 ・右(東)側は紅葉屋本店(金之助の住居、で金之助は後年に南久屋町に転居、以降富田家の住居、その後

  5代富田重助起業する東亜工業(現在は東朋テクノロジーと社名変更)の本社となる


▶ 昭和12年の紅葉屋(浅野家)

 ・その後も洋物を商いしていた、下は二代甚七

 ・昭和12年には下にあるよう、旧家と言われ、紅葉屋財閥の一員として、財力も名誉もあった



▶ 二代浅野甚七(上記資料)の「人事興信録」

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▶ 四代浅野甚七(2018年で閉店した当主)

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