名古屋九日会

▶ 経緯

 この明治30年(1897)頃、名古屋に一つの財界人サロンができた。「九日会」という名前だった。毎月9日に参集して親睦を図り、官僚の送別会も行うという平和的なものだった。だが、財界の有力者がズラリと並んでいたところから、自ら強い影響力をもつようになった。

 加入していたのは、旧徳川家に恩顧のある御用達商人と、近在出身の繊維商人だった。伊藤次郎左衛門、岡谷惣助という2人を中心にして、そのほかに滝兵右衛門(タキヒヨー)、瀧定助(瀧定)、鈴木摠兵衛(後の材惣木材)、伊藤忠左衛門(由太郎。別名川伊藤家といい、四間道に残っている)、小出庄兵衛(後の丸栄につながる)、森本善七、近藤友右衛門(信友)、神野金之助(名古屋鉄道につながる)など20人近く入っていたようだ。

 例会は、主に河文が会場になったが、御納屋(現・丸の内3‐16。星野書店本部)も使われた。御納屋は徳川家の賄い方を務めたこともある名門料亭だった。

 この九日会は、単なる親睦会という主旨ではあったが、財界の新興勢力に対抗するという目的を、暗に有していた。特に〝緊張〟が強かったのは、奥田正香の率いる奥田派との関係だった。奥田は商工会議所の会頭を務めるドンだったが、自らが創業者で野性的な人物だったから、互いにけん制し合うことが少なくなかった。

 また、この九日会は、明治42年に福澤桃介が名古屋電燈の株を買い占めて、名古屋に殴り込みをしてきた際にも、大きな抵抗勢力となって立ちはだかった。

 昭和8年(1933)には「旭会」と改名した。

後年、この九日会は、名古屋は閉鎖的だと批判される体質も作ったといわれる。


▶ メンバー(写真クリックで拡大します)

・初代神野金之助 …2列目の右から3番目   ・四代富田重助(甥) …3列目の一番左

原画の白黒写真は森本商店のHPより http://www.morimotohonten.jp/images/company/morimotosyashi.pdf