昭和12年

紅葉屋(もみじや)財閥の特色

神野・富田一族中心の総合財閥

紅葉屋財閥は、神野・富田一族を中心にした、いわゆる一種の総合財閥であり、名古屋財閥の一分派である。この神野・富田一族が、財閥として今日の富力を築くに至ったのは、主に先代神野金之助が力精した、開墾植林事業の大成によるところが大きい。従って、神野・富田の一族が地方の一地主、あるいは一富豪としての立場を脱化し、商工都市名古屋の地に進出、いわゆる近代的資本家として、又一財閥としての形態を固めるようになったのは、比較的最近のことである。この点、名古屋に於ける旧家名門とはいえ、伊藤、岡谷などのように十数代の昔から根を張って、その古い伝統と歴史を誇るものに比べたら遥かに新しい。と言って、豊田のように発明と言う頭脳一つでわずか一代半のうちに築きあげた振興財閥と並べたら、これまた確かに古い存在である。いったい「紅葉屋」と言うのは、既に幕末時代から洋反物の貿易販売を営んでいた富田家の屋号であって、富田家は一族の神野家とともに、古くから中京財界の大商人、屈指の素封家として知られており、神野、富田の一族をもって形成れる財閥が「紅葉屋」を冠して呼ばれるのば、まさしくここから出た次第である。次に、この紅葉屋の形成過程を見るために、紅葉屋財閥を育てた人々について、記載する。

 

神野・富田一族中心の総合財閥

先々代 富田重助氏(初代金之助の長兄)

先々代に当たる富田重助氏は、尾西の名門神野家から出て、この紅葉屋富田家の養子となった人である。氏が紅葉屋の暖簾を受け継いだ時は、ちょうど幕末の頃で世情は騒然の真っただ中であったが、氏の達見はよく時運変転の状況を察して貿易業の将来性に着眼、排外思想が激しくなるまでに洋反物の販売を営み、一代の商才を発揮して大いに財産を積んだものである。そして明治初年に土地売買の禁が解かれるや、実弟にあたる先代神野金之助氏と提携して土地投資に縦横の活躍をし、さらに巨富を積んでここに紅葉屋財閥という一勢力を築き上げたのであった。

先代 富田重助氏(初代金之助の甥)

 先代富田重助は、先々代富田重助氏の長男に生まれ、温厚な人柄であったが、長じて後家業を継ぎ、守成の功を積むと共に一方、中京財閥の大立物として、明治、大正、昭和の三代にわたって活躍したものだ。多年名古屋商工会議所議員として交通部長を勤めていたが、また直系事業たる名岐鉄道(後の名古屋鉄道)、福寿生命等の各社長を始め、各方面の銀行会社に重役として関係し、隠然たる名声をになっていた。元来、茶道の盛んな名古屋の人だけに、その道にはことの外造詣深く、三井の元老益田翁とともに天下の達士として高名を博し、立ち居振る舞いが上品、心事の高潔なこと、財人として珍しい人柄であった。

先代 神野金之助(初代金之助)

 先代神野金之助は、嘉永二年四月十五日に、尾張国海西郡江西村で生まれた。父を金平といい、彼はその四男であったが、元治元年十月、十五歳にして家督を相続した。そして神野家の名声は彼の代に至って大いに興り、中京屈指の富豪となったわけである。先々代富田重助は、その兄にあたり、すでに富豪として知られていたが、明治九年急逝し、その子二代目重助氏(先代)がわずか五歳で家督を相続した。そこで、先代神野金之助氏はその後見人となり、名古屋に移住するに至った。

その移転に際して、自己所有の田地のうち、七町五反を江西全損にわたり、各戸に一反づつを無償で贈与したものである。かくして、富田家の補佐役となり、開墾及び植林事業に専念し、やがて富田、神野両家の富を加えたのである。その開墾事業というのは、明治十七年、三河国額田郡菱池村にあるお泥の荒廃地、菱池沼五十余町歩を買収、開墾して新田としたのに始まるが、なお引き続きその海浜地帯を埋立て、耕地とし、また先に毛利家が開墾に従事し、この後津波のため荒廃していた三河国渥美郡牟呂海岸(後の豊橋市)を廉価に購入して、苦心経営の後、面積一千町歩に達する大新田としたものである。二十九年、農相榎本武揚氏等、政府と民間の名士二千余名が臨場、盛大なる竣功式を挙げたという。またその後、三重県下に於いて植林事業を起こし、これに付随して養蚕、製紙、畜産などを奨励、さらに同県能保野原野を開発し、自己所有の百余ヶ村に於ける耕作人のため神富会を設立、勤農及び互助の機関とするなど、殖産興業のため努力するところ、なかなか甚大なものがあった。以上のように開墾植林事業をもって大成したのち、先代神野金之助氏はやがて中京財界に投じ、各種の事業に参画した。かくして単なる地主資本家としての立場を離れ、近代的な産業資本家として活躍を始めることになったが、特に明治二十九年当時の中京財界の有力者、鈴木摠兵衛、富田重助氏等が協力して明治銀行を設立するとお願いされて初代頭取となった。また四十一年十月、資本金五十万円をもって福寿生命保険を創立してその社長となり、四十二年八月には渋沢栄一氏が団長となって日米親善のため、選抜渡米実業団を組織したが、これに参加してアメリカに渡り、新知識を学び十二月十七日に帰国した。こうして中京財界の中枢部に活躍し、明治貯蔵銀行、朝鮮起業、名古屋電燈、東洋紡績等の各社にも、監査役その他の重役として活躍したが、この間名古屋商業会議所特別議員にあげられ、明治三十九年には同県多額納税者の互選により、貴族院議員となったのである。氏は、日露戦役当時の功により勲四等旭日章を下賜され、四十三年皇太子殿下名古屋行啓の際お目通りを賜り、四十五年、殖産事業に致した功績に対し、勅定の藍綬褒章を賜った。大正二年十一月、大正天皇行奉の際、単独拝謁並びに付御下問の栄を賜り、同四年正六位に敍せられた。越えて大正十一年二月、自宅にあって詩作にふけている際、心臓麻痺のため急逝した。享年七十四歳。 特旨をもって従五位を授かった。

紅葉屋財閥の事業体系と投資網

紅葉屋財閥の事業体系に至っては投資網を眺めると、まず大八起業株式会社、神富殖産株式会社、昭和起業株式会社、株式会社養和会の四社を直系としてもっているが、同時にこれは財閥としての参謀本部である。従っていずれもその事業内容は動産、不動産及び有価証券の取得利用を目的とする財産保全機関であるが、伊藤財閥の伊藤産業、岡谷財閥の岡谷保産、瀧財閥の瀧定合名などと異なって、財閥支配の参謀本部が数社に分かれているのである。これは、単に紅葉屋財閥といつても、その内部関係が神野・富田の両家に分離しているからであって、其の各々が財産保全、投資に別個の機関を持っているわけだ。すなわち、両家の共同出資によるものに神富殖産があり、大八企業(最近まで神野同族株式会社)、昭和起業の二社は神野家を中心とした会社であり、養和会は富田家の財産保全機関である。この外、次に示した数社は、すべて単に投資関係をもつのみで、そのうち比較的支配地からの強いのは名古屋鉄道、福寿生命、明治銀行の三社に過ぎない。紅葉屋財閥は、かっては金融資本の本尊として明治銀行を持っていた。明治銀行は、愛知銀行、名古屋銀行とともに、中京三銀行の一つとして中部金融界における一大勢力であったが、昭和七年三月、名古屋地方に突発した金融恐慌のため、その渦中に巻き込まれ遂に休業の止むなきに至ったのである。この銀行は明治二十九年十二月資本金三百万円をもって先代神野金之助、奥田正香、先代鈴木摠兵衛、上遠野富之助等の諸氏によって創立されたもので、初代頭取には初代の神野金之助氏が挙げられた。それ以来紅葉屋財閥と明治銀行との関係は資本的にはもちろん、経営上からも離れることのできない緊密なものとなったのであるが、金融恐慌によるこの銀行の休業は、紅葉屋財閥に対して痛烈な打撃を与えるには充分であった。当時、紅葉屋財閥の代表的な地位にあったのは、先代の富田重助と二代目神野金之助の両氏だ。富田重助氏は名岐鉄道、福寿生命の代表取締役を初め、福寿火災、昭和毛織、愛知時計、東陽倉庫、伊勢電鉄の各取締役、中央信託、日本貯蓄、名古屋製陶の各監査役等、多方面に重役の椅子を占め、中京財界での重鎮として活躍していた。また神野金之助氏は便宜運漕、三河水力、昭和起業の各代表取締、日本映画劇場、千代田信託、中央信託、福寿火災、名岐鉄道、日本貯蓄、福寿生命、名古屋製陶の各取締役、日亜拓殖、東洋紡績、愛知時計、昭和毛絲、名港土地、東邦瓦斯、南米拓殖の各監査役の椅子にあったが、両氏とも預金者大衆への責任上からも、従来の地位に止まることは困難な事情にあったので、一、ニの関係会社を除いて引責辞任という形をとり、財界の表面から退いたのであった。そして、その後の紅葉屋財閥は、専心明治銀行の整理達成に没頭したものであるが、この間、財閥指導者の地位にあった富田重助氏は没し、二代目神野金之助氏が第一線に立つに至った。やがて昭和八年夏には、明治銀行も再開業の運びとなり、これを機会に神野金之助氏は同行の重役を辞して、再び財界への乗り出し工作をつくした。これには青木鎌太郎氏あたりが多大の助力を与えたものだ。こうした事情から、明治銀行に於ける同財閥の株式所有数も、神野金之助氏、富田重助氏等が表面から退いたのを機会に多く売却され、現在では歴史的関係を別として株式所有高から見る限り、その関係は著しく希薄になったと言えよう。さらに外部的には直系会社と称せられる名古屋鉄道(旧名岐鉄道)と、紅葉屋財閥との関係も、株式所有高から見る場合、特に愛知電鉄との合併によって現陣容になってから、その支配力は絶対的と言うことはできない状態になっている。ひう見て来ると、紅葉屋財閥として、その経営に独裁的支配力を持っている事業は、単に福寿生命のみとなるわけである。ただ列挙したように、紅葉屋財閥はその直系会社の手を通じて、また神野氏、富田氏等の個人の手によって、かなり広い範囲にわたり投資を行っており、重役としてその経営に参加している。 すなわち、名古屋財閥の多くがそうしているように、絶対的支配力をもって独力経営する事業というものが比較的少なく、多くは財産保全及び利用としての立場から多方面の事業に関係を持つ、という特色がここに見出されるのである。

神富殖産株式会社

紅葉屋財閥の中枢機関は、この神富殖産である。設立されたのは大正八年で、資本金は三百万円、土地建物の所有、利用、農業、開拓、植林などがその事業の目的となっているが、いったい社名を見ても判るように、当社は神野、富田の両家の共有財産の保全利用を目的として創立されたものだ。先々代富田重助氏(初代金之助の兄)は明治九年に没したが、その後を継いだ先代重助氏が未だ幼少だったため、其の叔父にあたる先代神野金之助氏は、後見人として同家の事業を鑑み、財産を管理することになった。ところがその後、先代神野氏が開拓、植林等各種の事業にあたって富田、神野両家の資産を運用した結果、遂に両家のいずれかに属すべきか正確に分割できない財産を生ずるに至ったので、これを基礎に両家の和合とその共栄を計るべく組織されたのが、すなわちこの神富殖産なのである。紅葉屋財閥なるものが、神野、富田両家総合の上に築き上げられた理由は、こうした理由によるわけである。

   代表取締役  神野金之助(二代)   同      富田重助(初代金之助の甥)

   取締役    神野三郎                      監査役    富田孝造

 

大八企業株式会社

神野同族株式会社と呼ばれていだが、昨年現名の大八企業と改称したもの、資本金は百万円で、動産、不動産及び有価証券の取得所有、利用又は売渡各種の企業に対する資金の供給というのが営業目的である。創立はやはり大正八年四月、言うまでもなくこれは神野家の財産保全を目的として、先代金之助氏が造ったものだ。

   社長     神野金之助                    取締役    神野三郎

   同      神野七郎                        監査役    神野滋

   同      鐵村国太郎

 

昭和起業株式会社

これも同じく神野家を中心にしたもので、昭和四年六月の創立、資本金百万円、土地建物および有価証券の所有利用を目的とする財産保全機構だ。

   代表取締   神野金之助                 取締役    鐵村国太郎

   同      伊藤源之助                 監査役    神野七郎(悦三郎の娘婿?)

 

株式会社養和会

資本金百万円で営業目的は有価証券売買、すなわち富田家を中心とする財産保全機構であ。

  代表取締役  富田重助

以上の通り、紅葉屋財閥は四つの財産運用期間をもち、これをもって財閥活動の本拠とし、参謀本部としているが、この機関を通じて各社に投資を行っている。ただし、その他にも神野金之助氏、富田重助氏その他一族の個人名義によって有価証券の投資などは事業経営に当たっているものもある。

 

福寿生命

名古屋唯一の本店生保会社であり、紅葉屋財閥にとっては最大の事業本拠である。創立は明治四十一年で、初代社長には先代神野金之助氏が据わり、その他当時の重役の顔ぶれを見ると専務は先代富田重助、取締役は先代伊藤伝七、先代漕谷縫右衛門、先代瀧定助、監査役は先代岡谷惣助、先代春日井丈右衛門という堂々たる一流財界人ばかりであった。 創立当時の資本金は五十万円であったが、大正七年百万円に増資して今日に至っている。 契約総額五千二百三十七万六千円、資産総額一千七百九十四万五千円(十一年度末)という会社だ。総株二万株のうち、紅葉屋財閥関係者で占めるのは次の通り。

  大八企業  二、八九三 株                     富田重助  二、二九〇

  神野殖産  二、一七一                          養和会   一、三八〇

  神野金之助 一、三〇〇                          神野七郎    一六九

 

神野新田土地

明治銀行閉鎖で神富殖産所有(神野家富田家の財産間の会社)の神野新田を明治銀行に無償提供した。その神野新田を管理するために昭和八年に設立された資本金三百五十万円の可防式会社で、不動産の所有、利用、経営管理等を目的とする。明治銀行の預金者に神野新田を株化し賠償とした。会長江崎真澄氏、専務に神野三郎氏が据わり、取締役飯田猛氏、監査役井上峰蔵氏という重役陣だ。

 

神野新田養魚

明治四十三年の創立で、資本金十万円の会社。 魚介の飼育販売が目的である。

社長原田覚次郎氏、取締役福谷元次氏、神野三郎氏、監査役田中新氏、山田芳蔵氏。

 

名古屋鉄道

昭和拾年九月まで名岐鉄道と言ったが、愛知電鉄を合併して現社名にした。創立は大正拾年六月、名古屋電機鉄道会社の地方鉄道部を分離、その事業を継承したものであった。その後、数回の増資合併を経て現在資本金三千六百二十九万一千五十円となったが、この十月一日をもって倍額の七千二百五十八万二千円に増資すべく、現在の株主に対し一株に付き一株づつ割当てることに決定している。鉄道総延長は三六二.四㎞,内複線一六一.八㎞、単線二〇.六㎞という中部日本随一の電鉄会社だ。

  愛知証券所有  一二、七二四 株        福寿生命     六、一四五

  海東土地建物   五、一九〇                後藤幸三     五、〇九〇

  藍川清成     四、六一〇                富田重助     三、八一五

  竹田嘉兵衛    三、五〇〇                大八企業     三、四五五

  白石勝彦     三、四二二                下出民義     三、三七五

  岡田徳右衛門   三、〇〇〇

副社長に神野金之助氏、監査役に富田重助氏が顔を並べている。

 

明治銀行

明治二十九年の倒立、現在の資本金一千四百二十万円だ。一族の神野七郎、富田孝蔵両氏が取締役に在任。総株数二十八万四千株のうち、紅葉屋財閥の系統で 占めているのは次の通り。

  富田重助     五、四二〇 株     神富殖産     二、二〇〇

  大八企業     二、一一二                神野金之助    一、一五〇

  福寿生命       六三〇                富田孝蔵       四一〇

 

福寿火災

明治四十四年に創立されたもので、現在資本金二百万円、年度末契約高二億一千二百七十八万一千円、年度末責任準備金百ご十万円(十一年度)という会社。総株数四万株のうち

  神野金之助    一、〇八五 株        富田重助     一、〇一〇

  養和会        三〇〇                昭和起業       三〇〇

  神富殖産        五五

を占め、取締役に神野金之助、富田重助が控えている。

 

三河水力

大正十三年の創立で、資本金三百七十五万円の会社。

  福寿生命     七、四〇〇 株        昭和起業     二、六〇〇

  神野金之助    二、〇〇〇                大八起業     二、〇〇〇

  神野太郎       四〇〇                神野三郎       二〇〇

  富田重助       二〇〇

神野金之助氏が、取締役として経営に参加している。

 

東邦瓦斯

大正十一年の創立(創業は明治三十九年)、資本金二千四百二十七万五千円、最近まで神野金之助氏は監査役の椅子にあった。

  福寿生命     五、九八六 株        明治銀行     二、〇〇〇

  神野金之助      六五〇                養和会        一五〇

 

名古屋製陶

明治四十四年の創業、現在の資本金は二百万円。

   富田重助    一、〇〇〇 株     大八企業    一、〇〇〇 

   養和会       六〇〇

 

東陽倉庫

大正十五年の創立で資本金六百万円の会社だ。紅葉屋財閥の直接投資はないが、福寿生命を通じて五千株を持っており、神野三郎氏が取締役に列している。

 

昭和毛絲

昭和三年六月の創立、資本金は二千万円で川西系の会社であるが、紅葉屋財閥は大株主で、神野金之助氏が取締役に、富田重助氏が監査役に列している。  

   富田重助    三、〇〇〇 株      神野金之助   一、〇〇〇

   浅野甚七      二〇〇              富田孝蔵       一〇

 

愛知時計電機

明治三十一年創立、資本金一千五百万円の会社、神野金之助氏が監査役に据わっており、紅葉屋財閥としての投資は

   神野金之助   三、七八〇 株       福寿生命    三、三八五

   富田重助    三、〇〇〇

この他、大八企業その他の機関、あるいは各個人名義で投資されているものは、かなり多方面に散らばっているが、一々書き並べるまでも無いだろう。

 

紅葉屋財閥の事業体系と投資網

神野金之助氏

現在の紅葉屋財閥で、代表的な地位に立っているのは人の金之助氏である。昭和八年先代富田重助が没してからは、氏が中心となって一門を引き具して活躍している。氏は先代金之助氏の四男で明治二十六年生まれというから本年まだ四十五歳、幼名を金重郎と言ったが、先代没後をうけて大正十一年家督を相続し、金之助を襲名したのである。従来この地方では、たとえ名門の子弟と言えども多くは中等学校を出ると、家憲に従って実務にたずさわるのを常としたものであるが、氏は第八高等学校から京都帝大法科政治科に学んで充分其の学識を磨いた。さすが名門の育ちだけに風貌はおっとりして何処か長者の風格を備え、極めて温厚篤実の人柄である。福寿生命、大八企業各社長、名古屋鉄道副社長、神富殖産、昭和起業代表取締役、福寿火災、三河水力、名古屋製陶、昭和毛絲、名古屋観光ホテル書く取締役、愛知時計電機、東洋紡績各監査役、名港土地相談役、財団法人神野康済会理事長、名古屋商工会議員。

 

富田重助氏

富田家の当主で、明治三十四年生まれ、前名を重郎と呼んだ。大正十五年慶応法科の出身で、学校を出ると先代の膝下にあってひたすら財界進出の準備を整えていたものであったが、昭和八年先代の病没をの後をうけて重助を襲名、富田家の当主として財界の表面に出ることとなった。紅葉屋差征伐の一方の旗頭というわけだが、神野金之助氏の指導をうけ、中京財閥の新進として対外的にも大いに活躍している。温厚篤実の好紳士だ。養和会、神富殖産各代表取締役、福寿火災取締役、福寿生命、昭和毛絲、名古屋鉄道、十一屋等の各社に監査役として関係している。

 

神野三郎氏

神野新田土地専務、神富殖産、大八企業、東陽倉庫、神野新田養魚各取締役、その他の地位にある。氏は愛知県の生まれで、神野金之助の義兄竹田鋹太郎氏の弟、明治八年生まれで先代金之助氏の養子となった人。

 

神野七郎氏

神野悦三郎の娘婿と思われる、大八企業、明治銀行各取締役、昭和起業監査役

 

富田孝蔵氏

紅葉屋財閥の傍系『紅葉屋』二代目浅野甚七氏の弟に当たる人だが、先代富田重助氏の養子となり、富田姓を名乗るようになった。三重ホーローの常務として活躍する外、明治銀行取締役、神富殖産の監査役を兼ねている。

 

鐵村国太郎

神野三郎の養女「まさ」の夫(香川、鉄村源二郎の子、東洋穀産専務・鉄村国太郎)。

氏は神野金之助氏の義弟で、昭和起業の取締役、大八企業の監査役であるとともに福寿生命の直営部長としてここに主力を注いでいる。

 

飯田猛(一族外の人)

大分宇佐の生まれで、大正五年東京帝大独法科出身、最初司法官となり、のち転じて銀行界に入ったが、かって中井銀行の整理に当たったこともあり、故井上準之助氏の推挙で明治銀行に入った。そこで支配人として漸くその才能を認められようとする時、休業の災厄に遭ったが、生駒頭取辞任後は、常務取締役に抜擢され、破綻後の全力を傾注したものだ。整理もどうやら一段落着いて、昭和十年同行を退き、名港と津株式会社社長となったが以来社業の発展に努力し、業績もめきめきと好転を示している。他方、岸本汽船との資本的握手、新規企業としてバルブ会社の計画などの実現を計りつつあるが、その経歴を見ても判るように、元々紅葉屋財閥生え抜きの人物というわけでもなく、今では広く中京財界人として活躍を期待されている。

 

寺木喜三次(一族外の人)

帝大を卒業して福寿生命に入り、取締り支配人からやがて常務取締りに抜擢され。神野社長を授けている。紅葉屋財閥最大の直系事業であり、金融的本拠である福寿生命の指導官として、一切の実務を切り回している重要な人材である。

 

井上峰蔵(一族外の人)

井上氏は三重県松坂の出身で、大正七年東京帝大独法科を卒業した。明治銀行に入ってからは庶務課長として働き、のち取締役支配人に抜擢され、休業後は飯田元常務と共に全力をあげてその整理に力をつくしたもの、飯田氏の名港土地へ転出後は常務取締役に挙げられ、現在同行の中心人物として活躍している。

 

千田憲三(一族外の人)

名古屋鉄道取締役である。合併前の名岐鉄道には社長跡田直一氏、常務山田芳一氏等が紅葉屋財閥の人として頑張っていたが、今は故人となり、残っているのは千田氏だけである。千田氏は愛知県丹羽郡の出身、大正五年早稲田大学を出て一時愛知の経済記者をしていたことがある。同八年名古屋鉄道に入社、以来今日まで二十年間鉄道人として活躍して来た。その間支配人のイスにあったが、昭和十年愛知電鉄との合併後は営業部長となり、ごく最近取締役に抜擢されて重役陣にゴールインしたもの、傍系会社の重役も兼ねている。

 


 タイトル     中京財閥の新研究           

 著者       中外産業調査             紅葉屋財閥

 出版者      中外産業調査             書籍へのリンク

 出版年月日    昭和12(1937年)             http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463027/134