▶ 紅葉屋の概略
・文政12年(1829)に初代富田重助鹿助が知多の吉見から名古屋の中須賀町に出て
小間物屋「紅葉屋」創業、化粧品・小間物など雑貨類や食用油類を取扱い尾張藩
御用商人としての地位を築いた(中須賀町は後に鉄砲町に編入)
・人見璣邑の身内の末太郎を2代重助として養子としたが、早世したよう
・嘉永4年(1851)4月、神野金平の長男・小吉が15歳で養嗣となる
・安政元年(1854)8月、初代重助が亡くなり、小吉が3代目を襲名し紅葉屋を継ぐ
・明治9年(1876)9月、3代富田重助が亡くなり、子・吉太郎が4代重助を襲名したが
幼いので初代神野金之助が後見人となり、紅葉屋も率いた。
・明治9年に洋反物を番頭の浅野甚七に。洋小間物を渡辺長三郎に譲った。
・神野富田家両家は殖産事業に傾注してで実績を上げていく
▶ 三代重助墓銘
下の画像の4名が紅葉屋の神野富田両家の主要メンバーです。(以下左から)
・神野金平は7代金平で本名は重連、3代富田重助(長男)、神野三郎母のゑい、初代神野金之助の父
・3代富田重助は神野金平の長男(金之助の12歳上の長兄)で本名重政、明治9年に40歳で急逝
・初代神野金之助は7代金平から家督を継ぐが、金平は健在のため初代金之助を名乗ったと推測、本名は重行
、後に神野富田両家の代表となる
・4代富田重助は3代富田重助の長男(金平の孫、金之助の甥だが一時期は養子とした)で、本名は重慶
・ 富田家は初代は重助鹿助だが、3代以降は鹿を使ってなく、神野系の「重」を使っている(2代は不明)
▶ 紅葉屋の躍進
・幕末に3代富田重助が横浜で仕入れた舶来の反物と小物の販売を始めた
(父の金平の物心ともの援助も大きかったようだ)
・紅葉屋は名古屋で唯一の舶来物を扱う店であったため非常に繁盛し、伊勢や
北陸にも販路が広がり莫大な財力を得た
・その財力を元手に貸金業、金禄公債や土地の購入や新田開拓で富を増やした
・3代富田重助が明治9年に亡くなると紅葉屋は番頭の浅野甚七に譲り、神野富田
両家は殖産事業に専念した
▶ 紅葉屋の閉店
▶ 神野家富田家家政要則
家政要則告文
・家政要則は明治23年に制定され、翌24年に施工される
・神野富田両家の財産の保全と発展を管理する決まりである
・左の画像クリックで家政要則の詳細にリンクする
▶ 神野本家のその後(初代金之助)
左の写真は51歳頃の初代神野金之助
・明治10年、紅葉屋関係の実績が認められ名古屋米商会所取締役に選ばれる
・明治11年、三重県下の数村に亘り土地を購入
・明治17年、三河額田郡の菱池墾田工事に取り掛かる
・明治26年、神野新田の開拓工事に取り掛かる
・以降、銀行・保険会社など多くの役員を歴任する
・明治37年から39年には貴族院議員も選ばれる
・叙勲を賜る
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▶ 神野本家のその後(二代金之助)
▶ 神野分家(豊橋神野家)のその後
▶ 紅葉屋創業の富田家のその後(四代富田重助)
4代富田重助は紅葉屋財閥関連の多くの会社の役員を歴任し、昭和7年(1932)に資産管理会社の養和会を設立した。
4代富田重助は神野新田関係の会社の重役も務めたが、昭和 8(1933)に62歳で亡くなる。
▶ 紅葉屋創業の富田家のその後(五代富田重助)
・家督を継ぐ前は「重郎」、5代を継ぐときに「重助重信」になったよう
・昭和21年(1946)に東亜工業株式会社を設立し、後に『東朋テクノロジー株式会社』
と社名を変更し、現在に至る。
▶ 総番頭の浅野甚七が受け継いだ紅葉屋の洋反物
・初代金之助は殖産事業に傾注し、後に「紅葉屋財閥」と呼ばれる
・明治9年、初代金之助は殖産事業に進み、洋反物は番頭の浅野甚七が受け継いだ
・左の写真の丸内が浅野甚七(右が三代富田重助)と思われます
・昭和12年当時は引き続き洋反物を扱っていたが、戦前から月星化成の代理店
・2018年末に紅葉屋(創業から189年)を閉めました
▶ 渡辺長三郎が受け継いだ紅葉屋の洋小間物
・明治9年、初代金之助は殖産事業に進み、洋小間物は渡辺長三郎が受け継いだ
・渡辺長三郎は紅長と呼ばれ鉄砲町で商いしたよう
・No3の人物と思われることからも左の写真の丸内が渡辺長三郎と思われます
▶ 明治中期の鉄砲町
▶ 明治末の鉄砲町
・紅葉屋の洋小間物を引き継いだ紅長こと渡辺長三郎が別の家として書かれているが、誤記か?
▶ 明治末期の鉄砲町
・明治末期
▶ 大正時代の鉄砲町
・大正3年頃