実業界を引退せんとす 神野金之助君

下の2画像が原書で右から読む


現代語風にアレンジ

 伊藤君と同時に同じく実業界引退説を唱えられている神野君は、伊藤君とは全然色彩を異にしている。 すなわち一方は三百年来の富豪、一方はわずかに先代から芽を吹き染たる、いわゆる悪く言えば成上がり富豪で、ここに個人的および対社会的に非常に懸隔が生じ、ことごとに〇れが発揮されているのも面白い。

 君は海部郡江西村の一農家に生まれて、それに名古屋鐵砲町紅葉屋の養子であった実兄の遺産を受け継いで、同じく紅葉屋の屋号で維新の際より、早くも洋反物などを輸入販売したものである。 当時故田中不二麿氏等が盛んに勤王論を唱える時分で「異国の物品を商う者は国賊也」と抜刀で切り込んだと言う、かの紅葉屋事件なるものは、すなわち君の店頭に於ける椿事である。

 また維新の際、士族の封換公債が下落した時に、これを買い占めて巨利を得たのを手初めに、伊勢、三河等にて山林荒山蕪地の払下げを受けて造林、または開墾によってトントン拍子に巨万の富をかち得て、ついには名古屋旧来の富豪をしのぎ、日本長者番付に天下の富豪として乗せられるようになったものである。

 その中でも、かの神野新田は君の最も誇りとすると所で、また有名な大規模の開墾地である。 そもそもこの神野新田なるものは最初より氏の計画ではなく、かの勝俣稔氏が愛知県令の当時、山口県の毛利氏を説いて着手せしめたもので、毛利氏を初め、一千百町歩の新田開墾を内務省に出願し、幾多の天災と戦って、二十五年に至りようやく二百五十町歩程の植付をするに至ったその年その秋、またもや暴風のために築堤破壊され、実れる稲は海水にさらされて、見る影もなき元の荒蕪地に化してしまい、流石の毛利氏も遂に望みを絶った。 ここにおいて神野氏は翌二十六年、この権利を買収して事業を継続することになった。 そのころ都合が良いことに、一時天下に名を馳せた人造石の服部長七君が人造石築堤法を発明して、各所の港湾築堤に成功した。 すなわちこの服部の人造石をもって築堤したところ見事に成功して、以来渥美湾の狂浪もこれを突き崩すことができず、今や穣々たる稲田は一千百余町歩、五十六字に区画されて、遠く六里を離れた八名郡八名村地内豊川より、灌漑用水を分水して、年々巨額の産米を収得しつつある。 この新田の主管者は君の令甥神野三郎氏で、戸数約三百、人口二千四百余人、神社、寺院、学校、夜学会場、信用購買組合等、農村としての設備機関の全てが整い、すでに模範村としてその筋より表彰される位に発達している。

 往年の奥田正香君が名古屋実業界に勢威を振るっていた時代より、すでに一方に対持していたが、奥田派凋落の後は、実に名古屋実業界の覇王とも言うべき状況で、名古屋電鉄社長、福寿生命福寿火災の両保険会社社長、明治銀行頭取、朝鮮起業株式会社社長、東洋紡績株式会社監査役等を兼ねている。

 時運に会したりと言うものの、その非凡の才幹を有するはもちろん、その盛んに活動する時代には自分の家にいかなる道具があるか、床の間の掛物も置物も何が飾ってあるか少しも知らなかったと言うに至っては、その努力の程も想像するに難しくなく、むやみに成功を急ぐ青年の良き教訓ではないか。

 君は極めて仏教信者で、かの東本願寺の勅使門一手寄附のことは既に人の知るところであるが、その他各種の公共慈善事業、および神社仏閣への寄付金も少なからぬもので、済生会へは三万五千円を寄付している。

 先年、実業界に尽瘁する功によって藍綬褒章を拝受し、貴族院議員在職中、勲四等に叙せられ、今回また正六位に叙せられた次第である。

 しかし、本年正に六十六歳、財貨倉庫に充実して、百年臥食の糧を蓄積しながらも、なお倹素身をもって実践し、昼弁当はうどんかけ三つと言った調子で活動しつつあるが、今回叙位の恩典に欲したことを好機として、明年早々実業界を引退するとの説あり、果たして本当か。 いずれにしても君のごときは一代の幸運兒と言える。

 なお君の引退は伊藤君とは異なり、自業界の引退であるので、その後は親戚の富田重助氏が継ぐことになるであろう。   (大正四、十二) 

 タイトル     東京名古屋現代人物誌『実業界を引退せんとす 神野金之助君』

 著者・出版者【長江銈太郎・柳城書院】 出版年月日【大正5(1916年)】 該当頁【168~170】

 書籍へのリンク  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955846/93